こんな話、他のヨガ教室では聞いたことがありません
「こんな話、他のヨガ教室では聞いたことがありません。
初めて聞きました」
ヨガの目的をお話しした時のことです。
そんなことはないと思うんです。
ヨガ講師ならば、違った切り口から伝えているはず。
私の「ヨガの目的」はこうお伝えしました。
幸せって何でしょう?
セミプラーベート・ヨガレッスンは、はじめにヨガ哲学についてお話をすることが多い。
この日は、お着替え中の雑談から「幸せのあり方」についての話をしました。
ヨガの目的は、やっぱり「幸せ」を求めることにあります。
では皆さんにとって「幸せ」とはどんなことを指しますか?
毎日笑顔で過ごせること?
家族が健康なこと?
素敵は人たちに囲まれて生きること?
人の役に立てること?
どれも「幸せ」の形ですね。
ところが、どれも「不幸のもと」でもあるんです。
なぜなら「笑顔でいられない時」や、「家族が健康でなくなった時」「素敵な人に囲まれていない時」「人の役に立てない時」は、自動的に「幸せでなくなってしまう」から。
現象を「幸せ」だと定めると、それは不幸になるのです。
なぜなら、「万物は流転する」から。
物事は言葉でさだめられた捉え方だと、必ず変化するものだから、です。
変化するものが「幸せ」だと思ってしまうと、必ず「不幸」になります。
ヨガの目的はやっぱり、「幸せ」であること
ヨガは「幸せ」を「心を止滅させた状態になること」だとしています。
心が止まっているので、物事は変化しないんです。
極端な話、私たちの大切な人が元気な時も、死んでしまったとしても、動揺せず喜びも悲しみもせずに同じ心持ちで見るということ。
心が動かないので、いつも平静でいられます。
これは幸せ、ですよね。
心が動揺しないので、いつも同じ状態を保ていられるからです。
私たちが体と感情を持って生まれた意味を考えると
でもやっぱり、私たちは体と感情を持って生まれているのです。
全く心を動かさない、無感動な状態が幸せなのだとしたら、多分私たちは体も気持ちも持たないで存在していたことでしょう。
自然は私たちに「感情」を授けてくれました。
だとしたら私はこう思うのです。
綺麗なものに心を奪われ、誰かを大切に思う。
そして誰かを憎み、何かに悲しむ。
豊かな心の動きを体験したものだけが、その先の「心の動きを止滅させた」平静な状態へ登ることができるのだ、と。
初めから無感動な心は、ただ暗愚なだけ。
暗愚から幸せは生まれません。
だから私たちは、大いに心を動かし、時には愚かな振る舞いをすることもあり、その先にきっと「本当の幸福」を見つけられるのでしょう。
体を使って物事を経験し、味わいつくすことをゆめゆめ軽んじるな。
今の私はそう考えています。
だからこそ、ヨガポーズ・呼吸・瞑想をセットにした「ハタヨーガ」を行じ、教えています。