我が子たち、今日が年内最後の授業です。

子どもたちの一年間を振り返って、ずっと考えていることを書きたいと思う。

学校での子ども同士のいじめについて、親はどう関わるのかということを、ヨガ哲学から考察したいと思います。

親を始め、大人の最大の役割は、子どもを危険から守ること。

そして、子どもに身を守る術を教えること。

インドの寓話に、危険に直面した二つのお話があります。

ある人が夜、庭に大蛇を発見する。
コブラか?!毒蛇か??!!
その人は一晩中恐ろしくて、庭に出られないばかりか、いつ大蛇が家に入ってくるか怯えて過ごした。
日が昇ってきて、恐る恐る庭を見て見ると、大蛇は実は長い紐だった
大勢の人が集う広場に、狂った象が走り込んでくる。
象使いが声を限りにして「狂った象が暴れまわるぞ!!みんな逃げろ!!!」と叫び、みんな散り散りに逃げ惑った。
その中の一人の男は、こう思った。
「正しく生きている私を象の神は救ってくれるに違いない。
象は私を避けていくに違いない」
その場にとどまった男は、狂象に襲われて死んでしまった。

死の世界にたび立ちながら男はこう言った。
「神様はなぜ、私を救ってくださらなかったんだ・・・!?」
そこで神の声がした。
「私は象使いの神を遣わして、君に危険を何度も知らせたのだよ」

この二つのお話、子どものトラブルへも当てはまると思いませんか?

・些細なことを、大ごとにしてしまう

・大変なことから、身を守らない

両方あることです。

子どもたちをいじめから守るには、「事実を確かに見極める冷静な目」が不可欠なのです。

大丈夫、大丈夫、この子は強いから。この子はお友達たくさんいるから。といじめや子どものSOSを見過ごしてしまうことはあってはなりません。

一方、子どもの心の成長に欠かせない、人との軋轢・トラブルを全部回避させようと親が子どもを囲い込もうとしたらどうなるか?

蛇が実は紐だった、そうわかるための光を、親が子どもに与えなかったとしたら。

子どもはそこにはない恐怖に怯える人生を、送ることになる。

こんなこともあります。

子ども自身にいじめを告白させるよう親(大人)が仕向けること。

子ども自身がいじめを親(大人)に告白すること

両者の違い、お判りでしょうか?

いじめを告白するように仕向ける、これは往々にして子どもが質問者である親や大人を満足させようという気持ちになるようです。

つまり、よくある子ども同士のいざこざを「盛って」報告することがある、ということ。

別に子どもは嘘をつくわけでも、トラブルがなかったわけでもありません。

しかし、自分を心配してくれている人をある意味「期待に応える」ために事実を拡大加工して報告することがある、ということです。

本当は、そこにない「苦しみ」「いじめ」を、「実際ある」ことのように子ども自身も思い込んでしまう。

親が良かれと思ってしていることが、子どもの世界から理知の光を奪うことになってしまうのです。

我が家の長男は、小さい頃からでっぱっているものには全部ぶつかってみるタイプの子どもでした。

小さなトラブルから、大きなトラブルまでたくさん体験しています。

そうなると、親の心理はどうなるか。

「またうちの子が何かされているんじゃないの?!」
「またうちの子が、何かやらかしたんじゃないの?!」

と、大小のトラブルひっくるめて全部おおごとに解釈するようになります。

特に私のように、物事を壮大に捉える傾向のある親はね^^;

半年ほど前、我が家でこんなやり取りがありました。

「そんなひどいこと寄ってたかって言われるなんて・・・
その子たちみんな、君に悪意を持っているんじゃないの?
一体どんな子達なの?
学校に相談した方がいいのかな・・・」

「母さん!そういう言い方はやめて!
あいつらはそんな奴らじゃないし
母さんにそうやって考えて欲しくない。
俺はただ単に今日嫌だったことを母さんに聞いて欲しかっただけだから

もう中学二年生の男子です。

私の耳には、とてもひどいことのように感じました。(今でもね、ひどいなと思う)

でも、長男にとっては日常のトラブルで、自分対相手たち、その関係の中で解決する案件だった。

納得できない部分や、残った怒りの感情を吐き出すためだけに、私に聞かせただけだったんです。

そこを私が

「すわ!!いじめか?!大問題か??!!」

と騒ぎ立てたことに、長男は嫌悪感を露わにした。

長男は蛇ではない、紐だと考えた。

親の私は、そんな彼を見守りつつ、狂象がきた!!と思った時に、すかさず象使いの神を降臨させれば良い。

大切な時には必ず手を差し伸べてくれる、そう子どもに思ってもらえる親でありたい。

そのためには、現実を過小評価も誇大評価もしない冷静な目が必要なのです。

ヨガは冷静な目を保てるように、理知を磨く行。

子どもに一生懸命すぎて、親バカな私には必要な子育ての指針でもあります。