ある人が、前職に関わりのある新しい資格に挑戦しようとしたそうです。

応援しようと、お古のテキストを差し上げたそうです。

数日後、その方がテキストを返却してきたそうです。

なんでも「あなたの強みは、そんなとこにない」というアドバイス?コンサルティング?を仲間に貰ったからだそうです。

このお話、どう思われますか?

ヨガの段階は、8段階。

アシュタンガというステップがあります。

まず1段階目は「こういうことをやると、NGですよ」というとてもわかりやすい約束です。

・非暴力
・正直
・不盗
・禁欲
・不貪

この中で「不盗」アスティーヤと言いますが、これは私は大丈夫。という方も多いと思います。

万引き、窃盗、空き巣をしたことがある人の方が圧倒的に少ないですよね。

ところが、わたしたちが無意識・悪気なく犯す「盗罪」があります。

最初に挙げた例で、犯した罪です。

誰かの可能性を摘み取る、と言う盗みです。

足を引っ張るとも言います。

自分と同じラインに立っていると思っていた人が、新たな場所を目指し始めると誰でも一瞬不安になる。

悪気はないけれど、無意識だけど、なんとか阻止しようとしたくなります。

これは日本人の特性だと思います。

自分が「同じグループにいる」「同じ段階にいる」「同じステージにいる」と思っている人に対する拘束の念が、相手の成長を許さないのです。

子ども時代をチェコのソビエト学校で過ごし、様々な国籍の子どもと学んだ作家米原万里さんはこう言います。

「日本人の発想には、劣等感がある」

「ソビエト学校での級友は、すぐれた才能を友達の中に見つけると、自分のことのように喜んだ」

日本は相互扶助・横のつながりを大切にしてきた社会です。

これはとてもとても、素晴らしい文化で、その精神が災害時の自制心や辛抱強さにつながります。

横のつながりを大切にする精神の悪い発露は、横の線からはみ出るものを許さないこと。

自分とは少し違ったラインにいると考える人の成長は、心から応援できます。

ですから、大切なのは私たち一人一人は、それぞれ違った個体であり、多様性のある個体が集まって、緩やかにつながる素晴らしい社会に生きているという意識を持つことだと思います。

「不盗」どんな身分、地域、時期、習俗、どんな心の状態にかかわらず絶対守らなければならないとヨーガの聖典「ヨーガスートラ」にもはっきり書かれています。

「あの人を妬ましかったからついつい余計な一言を言ってしまった」
「つい出来心で」

これは通用しないという、厳しい理なのです。

日本人の社会観に基づく欠点ですから、克服するのは並大抵のことではありません。

ですからなおさら、何気ない一言に気をつけたいもの。

新しいことに挑戦するなら、誰かの言葉に惑わされない強さも必要です。

人は同じグループから旅立つ人を、祝福できにくいものですから。