おはようございます、洲濱(すはま)久美子です。
おもいっきり楽しんできたいと思います。
ここのところずっと考えていることを、綴りたいと思いますが、面倒くさい内容です。
ご興味のある方だけごらんくださいね。
自分が痛みを感じた時、他者の痛みを思いやる気持ちに変えられない方が一定数いるなあということを、しみじみ感じております。
自分の痛みには敏感だけれども、他人の痛みに鈍感な方。
人は経験したことしか想像できない生き物です。
経験の量は限りがあるので、人の話を聞いたり、本を読んだりして経験を補い、想像力を働かせて共感力と人間力を高める努力をしています。
ですが、自分が経験したことを、他人に置き換えることができない。
これはなんででしょうか?
「我」で表現できるものに集約されるのではないかなというのが、いまのわたしの結論です。
自我、我慢、我を張るという我です。
インドの哲学ではアハンカーラというのですが、「自分のもの」という意識のことを指します。
自分自身・自分の思い・自分の持ち物・自分の仕事・自分の家族、これを大切にできるのに、他者・他者の思い・他者の持ち物・他者の仕事・他者の家族などは、考えも及ばない。
結局「自分=我」と「他者」をはっきり区別しているから起こることなんだと思います。
事実として、わたしはあなたではありません。
しかし心を他者に、少しだけ向けることはできますよね。
その心の向かう方向が、わたしたちを「我」から解放してくれるのではないか。
心を自分の方ばかりにつかっていると、他者の痛みに鈍感な人になってしまうのではないか。
そう思います。
同時にね。
自分にのみ心を向けている方は、自分を客観視できません。
自分の行動が、どんな風に見えるのか、考えることができない。
他者を自分とおなじように暖かな目を向けるのと同時に、他者を見るように冷静な目を自分に向けることも必要です。
人間である以上、美しく生きて行きたいもの。
今朝、わたしも息子に対してとても鈍感な態度をとってしまいました・・・
ふと我に返ってみて、その醜さに愕然です。
一瞬一瞬、他者を自分と同じように大切にできる人でありたいと努力の毎日です。