「痛みを利用した精神統一こそ、ヨガの極意」
ネットですごい文章を見つけてしまいました・・・これって、ごめんなさい。
全然ヨガの極意ではありません!
こういうものを、真に受けないでくださいね。
だからインターネットって、怖いんです。
誰でも自分の経験からもっともらしいことを言える。
ブログで見た説を自分なりに解釈して、シェアしているのですが、全く本質を外してますよ!
本当に危険!!
「聖典に書かれていない方法で、苦行(=痛みを感じる、心身を痛めつける過激なヨガ)に熱中することは、悪魔に取り憑かれた忍耐である」
ヨーガの聖典「バガバッド・ギーター」にはっきり書いてあります!
昔々から、こういう誤解をする人は多かったのですね。
「痛みがヨガ本質」説、概要は以下のとおりのようです。
(1)痛みによって精神を統一。(痛みがあると、そこに気持ちが集中しますよね)
(2)だんだん痛みを味わうことが快楽になってくる(これこそヨガの極意!)
(3)快感を味わうためにヨガが癖になる
(4)気付いたらヨガによる快感に精神が集中するようになっている=ヨガの真髄
ヨガ=快楽をもたらすものという大前提が、全く間違っています。
ヨガのポーズによる痛みが、精神統一の手がかりになってくれるというのは賛成です。
ですが、ヨガポーズの作用は所詮そこまでなのです。
そこを求めるのが、ヨガではないのです。
ヨーガとは、心の作用を死滅すること
ヨーガ・スートラ第1章第2節より
心の作用を死滅するということの意味は、どんなことに直面しても気持ちを乱さずに淡々と生きるということ。
気持ちを乱されないことが、本当の平穏であり幸せであるということです。
人は嫌なことがあると、不幸になる。
人は嬉しいことがあると、幸せになる。
嬉しいことは、慣れると幸せを感じなくなり、「より一層嬉しい」ことを求めるようになる。
こんな定まらないことに、人間の幸せの本質があると言えるだろうか?
言えないでしょう。
快楽を利用するということは、出発点からして違っています。
出発点が違うと、あっていると思っていた道のりの先に、本当に登りたかった山の隣山に登頂してしまうことになります。
どんな経路を経ても、求める山には登れません。
バガヴァッドギーターには、こう書かれています。
「すべての事物に対する欲望を棄て去り、感覚を喜ばせるための行動をせず、報いを求めずに行為をする者こそヨーガの完成者である」
この説を唱えていらっしゃる方は、独学でヨガを極めようとしている方だそう。
さらにこの説を引用した方も、同じように独学でヨガを続けようとしている方のようです。
ヨガは、長い間かけて磨かれてきた魂の科学です。
勝手に自分で解釈できるようなことではありません。
ヨガの聖典を正しく読み、理解すること。
その理解の手助けをしてくれる先達を見つけること。
そして何より、正しい判断力を持てるように自分を磨くこと。
そのためにヨガのポーズ・呼吸法・瞑想で、魂の科学を追求できるよう心身を整える
それがヨガ行の本質なのだと私は考えています。
ヨガが独学では難しい点、ヨガの師選びが重要な点はここからもわかります。
ヨガインストラクターは、常に自分に厳しく問いかける必要があります。