ヨガ哲学で見る、受験の成功と人の質

ヨガ哲学を、実生活に即してご紹介するシリーズです。

バガヴァッド・ギーター第3章21節

何ごとでも偉人の行った行為を、一般の人々は真似るものだ

指導的立場の者が模範を示せば全世界の人々はそれに付き従う

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「自由はお金で買えない」と言います。

しかし、ある程度は努力で手に入るもの。

例えば、学校のランク。

長男が中学二年生なので、高校受験を見据えて今朝話したことです。

とても俗物的なものの言い方になりますが、学校のランクで自由度が決まるのはある意味真実です。

私が高校受験をした30年近く前、神奈川県の公立高校は学区制に分かれていて、その学区の中で明確なランキングがなされていました。

当時受験勉強に凝っていた(笑)私は、難なくトップ校に入学しました。

ふふふ、高校入学したらヨガに熱中しちゃったりして受験勉強やめちゃったんだけどね(苦笑)

そんで数学学年最下位をとることになるんだけどね(白目)

30年前ですから、まだまだ校則やら厳しくて中学時代校則で靴は白・紺・黒に限る!と決まってた。

陸上部だった私が赤のランニングシューズを履いて行ったら、先生に下駄箱から没収されたほど(大昔よね・・)

ところが高校入学したら、ピアスあり、茶髪あり、ミニスカあり、なんか定期テストの打ち上げで飲みに(以下自粛)

トップ校の学生が、制服を着崩す→自由な校風

下位校の学生が、制服を着崩す→ヤンキー

トップ校の学生が、授業中寝ている→ああ、この子この科目は必須じゃないんだ

下位校の学生が、授業中寝ている→ああ、この子勉強捨てちゃったんだ・・・

同じ行動であったとしても、周囲の目が違うんです。

卑近な例えだし、品がない例えですけれど、分かりやすいと思います。

ということは、許される側、トップ校の学生はより気をつけて行動しなければならないということなのです。

自分への誇りを持ち、自分を律すること。

ノーブレス オブリージュ(高貴さは、義務を伴う)

自由が許される立場にあるということは、規範になる必要があるということ。

それを忘れて、立場のメリットだけ使うのは、愚の骨頂。

人として失格です。

中学時代に通っていた塾の講師に、東大生がいました。

彼は上の例えをこう言うのです。

「東大生だと、駐禁とられても警察に学生証を見せると見逃してもらえるんだ。

『は!東大の学生さんでしたか!!』って、おまわりがさあw

あいつら、東大だとガラッと態度変わるんだよ!

だから、東大いいぞ!お前たちも頑張れ」

愚者ですね。

せっかく素晴らしい頭脳をさずったのに、その頭を持っている意味がない。

ギーターでは、人界に降臨した神の化身であるクリシュナが言っています。

バガヴァッド・ギーター第3章22-25節

私はこの世においてしなければならぬ仕事など一切ない。

それでも私は働いている。

もし私が働かなくなれば、必ずや人類は全て私を見習って働かなくなるだろう

賢者は見返りを求めず活動をする。

それは世間の人を正しく導くためである

神であるクリシュナが、なぜわざわざ人界で人生という修行をするのかということの理由を説いています。

この言葉は、人を増長という落とし穴から救ってくれる一言だと思うのです。

あのアルバイト塾講師の方、今どうしているのかしら・・・

実生活で何か気づくことがあったらいいな、と願います。