タイトル見て、ニヤニヤしちゃった方もいらっしゃるのではないでしょうか?
お願い大好き、「お願いさん」。
連絡来るときは、必ずお願いごと。
そしてあなたは、お助けします。
何度か繰り返すうちに、モヤモヤしてきます。
誰かに助けを求められて、お手伝いして差し上げられるのは素晴らしいことだと思います。
ですが、度重なる一方的な依頼に答え続けることは、よいことではないのではないかと思うようになりました。
「お願いさん」自身は、ご自分の考えでお願いするのですから、お願いの是非は私たちが考えることではないのです。
その依頼を受けたわたしたちが、周りに及ぼす影響について考えることが必要なのではないでしょうか。
そもそも「モヤモヤ」しながら手伝うということは、いやなことですよね。
モヤモヤの原因は、手伝いの内容やいろいろな条件が「人を心地よくする」ことではないことなのでは?
人を心地よくさせないことに協力するのは、よくないことですよね。
またわたしたちが手伝ったことによって、知人に迷惑がかかったり、嫌な思いをさせたりすること、あったかもしれません。
例えば家族に予定変更してもらう、些細なことですが子どもに留守番させる、誰かを紹介してその人にちょっと嫌な思いをさせるなど。
わたしたちが「引き受けた」時点で、「協力してあげた」ことは「わたしが起こした行動」になるのです。
わたしたちが責任を持たなければならない案件になる。
そんな責任もてますか?
そんな責任、持ちたいですか??
その答えが「否!」だったら、やっぱりお手伝いするべきではないのではないでしょうか。
何事も疑いなく、全て受け入れることが善人なのかというとそうではない。
何を受け入れ、何を拒否すべきなのか識別する力が必要だということです。
わたしはその識別する力が弱く、かなり毎回「あれれ?」な感じだったりしています。
そんなときは、まずヨガの古典を開いて、自分の行動が正解なのか調べることにしています。
ヨーガスートラという古典にありました。
「心を正しく浄化する方法としての、苦行がヨーガである」
※ヨーガスートラ2章1節
TAPAH SVADHYAYESVARA PRANIDHANANI KRIYA YOGAH
(浄化を助けるものとしての苦行・聖なる音を唱えること・そして偉大なるものへ全てを預けることがクリヤヨーガである)
を一部抜粋して解釈しました。※
ここでいう苦行ということを、「我が身を顧みず、何かのためにひたすら働くこと」とわたしは解釈しています。
「苦行」の規定を調べてみると、バガヴァッド・ギーターという書にこうあります。
「聖典に記されていない方法で禁欲や苦行を行うものは、見栄や自己アピールのために行うのであり、欲と執着のとりこになっているのだ」
「こうした行為は自分や周りを損なう、魔的なものである」
「自尊心を満足させ、みんなに認められ、人気者になり、カリスマになりたい!として行う禁欲や苦行は、不安定で長続きせず、利己的な行為と言える」
「お礼を期待しての行為、これによって自分に得すると計算しての行為、するべきでないことをするべきでないときにする行為は、愚かで考えることをしないだらしのない行為である」
(17章5節~)
あらためて考えることで、わたしなりに選択の基準をしっかりと定めました。
みなさんも「頼まれごとを引き受ける基準」を作ることをお勧めします。
女子会にありがちな、「いない誰かの悪口」が減るかもしれません。
不満や不服は、感じないように事前に準備しておくことが、心の健康のためになりますね!
人の考え方や性質は、簡単には変化しないものなので、やっぱり「お願いさん」を引き寄せてモヤモヤしてしまうこともあるでしょう。
こんな私たちにとって、モヤモヤサインは貴重です!
どうぞどんどんモヤモヤしちゃいましょう。
そして毎回、「それってわたしの仕事?」って考える癖をつけましょう。